デブになって、よかった。
自分のみっともなさを、すなおに受け入れられるようになった。
ムダにカッコつける虚栄心が、ずいぶんうすまった。
三度のメシが、うまくて、楽しいことに、単純に喜べるようになった。
そりゃまあ、階段のぼるだけで息が切れるとか、セレクトショップでサイズが無いとか、夏の太陽がこわいとか、嬉しくないことは多々ある。
そりゃまあ、痩せていれば、見映えもいいし、健康上の不安も少ない。
が、現にデブである私が、デブを嘆いたところで、痩せるわけではない。ましてや、デブな自分はダメなんだ、デブにはひとから愛される資格は無いんだ、などと思いこむ必然性も全く無い。
ヤセにはヤセの、中肉中背には中肉中背の幸せな生き方があるように、デブにはデブの幸福があるはずだ(たぶん)。
障害者運動で「障害は、個性だ」、と表現することがあるように、「デブは、個性だ」、と言えないだろうか?
そもそも、ひとがひととしての尊厳を認められるために、なにがしかの特別な条件(美しくあらねばならない、賢くあらねばならない、正しくあらねばならない、とかね)など必要ない、と私は考えるのだ。
ただ、そのままでいい。
デブを、ひらきなおってるんじゃないよ。あるがままなり。
「陰気なデブ」とは、あなたも友だちにはなりたくないでしょ?
だから、陽気で行こう!
そうだ、あなたもデブになってみませんか?!もう人生観、ぶっ飛んじゃうかもよ?!
ピーター・パンと車寅次郎
すべてがちょっとずつ嬉しい世界
元来、ひとの人生というのは、不幸なのだと思う。
しかし、にもかかわらず、うかつにも、「幸せだなあ」とか、「嬉しいなあ」とか感じてしまう瞬間が、日常のさなかにしばしばいかんともしがたくあるわけで。
それは、ふと見上げた空のブルーやオレンジに、じーんとなったり。街中でふいにかいだ、カレーの匂いだったり。カーラジオから、懐かしい、お気に入りの曲が流れてきたり。風呂で温まって、その後に飲む、カルピスソーダの「ぷはあ!」とか、あと他にもなんやかや。
そんなときに、「生きているのが嬉しいなあ」と、しみじみ思うのですよ。錯覚に過ぎないと言われるかもしれないけれど。
これって、不幸しかない人生に、ひとが耐えきれないからこそ、神様から人類に与えられた、あるいは人類自身があみだした、「嬉しい」という能力なんじゃないかとか考えちゃうのですよ。
で、そうして、「嬉しい」とか、「楽しい」とか、そんな気持ちを少しずつでも重ねていけたら、私たちはこの先もきっと大丈夫なんじゃないかと思えるのです。なかば確信にも似た思いとして。つらいことや、悲しいことがあったとしても。
私たちがすべきことは、「嬉しい」の感受性を鋭敏にしていくこと。人生をサヴァイヴしてゆくために。
すべてが、ちょっとずつ、嬉しい。そんな世界で。
私の好きなこと
愚者の代弁者
「愚かさ」は、はたして罪なのだろうか?
印象論にすぎない、とされてしまえば、確かにそうなりえるのだが、それにつけても、昨今の世間様を横目でながめていると、やたらと「さかしら」なひとが目につくように思われる。
いっぱしの、批評家、レビュアー、コラムニスト、エッセイスト、あるいはコメンテーターにでもなったつもりなのだろうか、彼らは?おおよそ、何につけても、一家言ないと気が済まないようなひとたちが多い。その割には、現在の日本の言論空間の空疎さと言ったら、なんなのだ?
言い訳がましく聞こえるかもしれないが、このような手慰み的ブログをシコシコ書きつづっている時点で、かくいう私自身も、「彼ら」と大差ない人間であることは、謙虚に認める。しかし、である。
何ゆえ、「彼ら」は、そんなにも自分を「賢く」見せたいのか?「愚かさ」を忌避するのか?
私には、彼らの、賢く立ち回って、なんでもそつなくこなしていく、みたいな姿勢というか、生き方が、何か責任を回避したり、リスクやコストを引き受けないような生き方に見えるのだ。
そんなに、「正解」だけが重要か?また、正しい「解」は、たったひとつしか認められない、とでも言うのか?
想像してみてもらいたい。人の愚かさを一切許容しない社会の、いかに居心地の悪いかを。
基本、人間が生きていく上では、想定だにしていなかった事態というものが、しばしば起こりえる。「先行きの見えない」時代、などというが、本来、未来に何が起きるのかは、確率論的にしか予想できない。「見通しのきく未来」などというものが、もともと思い込みの産物に過ぎないのだ。
ならば、どうすればいいのかというと、「トライ&エラー」でやっていかざるをえないのだ。はじめから「正解」にたどり着くことなど、無いとまでは言わないが、まれなのだ。
ならば、いかに計算しても、計画を練っても、人は過ちをおかすし、失敗だってする。そうした「愚かさ」を人は元来、切り捨てようがないのだ。
「愚かさ」を認めない、ということは、人本来のありかたを否定してしまうことに他ならない。合理主義や理性は大切だが、そうしたものだけで、人間や世界を規定してはならない。自らの知性の限界について、虚心坦懐になるべきである。(「合理性のほころび」を知りたければ、歴史を参照されたい。あまたの、戦争や革命、進歩主義、科学技術の盲信、人間の驕り高ぶりのオンパレードである。)
過ちをおかす愚かさは、致し方ない。真に猛省されるべきは、過ちからなにひとつ学ばないこと。
そして、時代を開くちからは、時にそれまでの世界の常識からは、はずれている、まさに「愚か」な行為とみなされてしまうものにこそ宿るのだということをお忘れなく。
あえて、断言しよう。「愚かさ」とは「自由」であることの、かかすことのできない条件なのだ。
Stay foolish.
この素晴らしき世界
本日、病院。帰り道、駅のほうへと歩きだすと、これまで気がつかなかったのだが、緑道というか遊歩道があった。「ん?これいくと、駅に出られんじゃね?」と思い、足を向けた。
春の日差しはうららかで、新緑が目にまぶしかった。
ふと、"I see trees of green,..."というサッチモの例の曲のフレーズが頭をよぎり、にわかに、唐突に実感した。そう、確かに、"What a wonderful world."だった!
もともとイカレぎみの私の頭が、この陽気で、いよいよ行きつくところまでいってしまいそうになった、それだけのことかもしれない。
ただ、きわめて主観的な見地から言わせてもらえれば、私は世界の広さと、そこに息づく生命の豊潤さを、全身全霊で感じたのである。
木々、葉、風、光、芝生の上の子どもとその母親、鳥、さえずり、車、坂道、遠くに見える、駅にすべりこむ電車!生きとし生けるものはもちろんのこと、無生物たちまでもが、この今日という良き日を喜んでいるようだった!
そして、私は心に決めた。
私は、この先、何度でも挫折し、くじけ、心折れるだろう。でも、「世界」と「他者」が存在する限り(「世界」、それは私の住まう場所であり、「他者」、それこそ私が求めるもの)、私は何度でも、繰り返し、日々の暮らしをやり直すだろう。
あの時、道で、私とすれちがったひとたちは、いぶかしんだかもしれない。なぜなら、こののどかな昼下がりに、私は感情の高ぶりの中、ほとんど泣きそうになりながら、顔をくしゃくしゃにして歩いていたのだから。
追記:道中、寄り道して、書店で、海猫沢めろんの新刊を買う。先ほど読了したが、また泣きそうになった。今日の私は、なるほど神経過敏かもしれない。
もの語る人びと ~一年の締めくくりに~
副題をつけるのなら、「端的に言って人生は無意味だ。しかし、生きてみるだけの価値は有る。シリーズその2」。
年末なので、一年を振り返ってみる機会も、皆さんお有りだろうが、例えばこういうこと。「あなたの今年1年を、5分間でまとめて下さい!」、こう問われたらあなたはどのように答えるだろうか?結論を先に言ってしまうと、あなたが答えたその5分間のことばたちが、意味なすものが、あなたの「(今年1年分の)人生の意味」なのだ。
なぜか?もともと1年分の生活の経験を5分間でまとめるほうが無理なのだ。だから5分で答えようとすれば、必ず「あなた自身の手によって」、恣意的に経験の編集が行われる(「5分じゃ、まとめられません」という回答も想定できるがあえてここではスルーする)。すなわち、あなたは、あなたの人生を、自ら「ここに注目!」とか「ここは、置いといて」などと操作できるのである。
このとき、そこには、あなたの「人生の意味」が現出しないだろうか?だって、あなたは、語りのレベルで「単純な事実の連鎖としての人生」に「意味の操作」加えたのだ。あなたは、1年を5分にまとめることで、人生の意味を提示してみせたのである。
「時間」それ自体には、意味などは必要とされない。しかし、そこに「人」が介在するとき、ひとは「意味」を切実に必要とする。「<意味>から<強度>へ」というのが、ニーチェの主張のひとつらしい。それはそれで確かなのだろう。しかし、「超人」ならざる、「凡夫」にとどまる私のような人間は、「無意味」の果てになおも「意味」を求めてやまない。
「語り」と「意味」の関連性に、納得していただけたものとして、話を次に進めたい。「語り」には「独白」と「物語」とがある。このうち「意味の生成」にかかわるのは、「物語」である。「独白」は思考の整理には有効だが、意味の生成の観点からは、充分とは言えない。「意味」には「受け手」が必要となる。「語り」においては「物語」がそれを担う。物語には「話者」と同等以上に「聴者」が重要となる。もの語りを聴いてくれる人が大事ということだ(ここで「王様の耳はロバの耳!」とほら穴にむかって叫んだ、あの床屋を思い出してもいいかもしれない)。
もの語る人、というのはいわば「森の中の泉」のようなものだ。そこへいけば、泉の水でのどを潤したり、体の穢れを清めたり、泉そのものの美しさに魅惑されたり出来るだろうが、泉がそこにある事に誰も気づかなければ、泉はやがて、地下の水脈がその流れを変えたら、誰知ることもなく涸れてしまうだろう。せっかく生成した意味が蒸発してしまうことだ。ものを聴く人というのは、「泉を探すために、森に入る人」であり、「あの森の、あの場所に、泉があった」と他の人に伝える人、だろう。
「もの語り」には人と人との、そのあいだの、意味の往還が必要なのであり、人が人を、ありのままで尊重するに値するものである、と承認するための責務がある、とそのように思う。
そして、私は、次にあなたたちに会うときに、何を語ろうかと、あなたたちからどんなことを聴けるのだろうと、期待をこめて、さほどピュアでもない胸をときめかすのです。
また、来年も、愉しき語らいの場に逢いまみえることを、強く信じています。