迷光亭冬雀日記

思いつくまま、気の向くまま。行く先もわからぬまま。

本を燃やしたこと、ありますか?

あなたは、本を燃やしたことがありますか?

私は、あります。
 
私はその時、中学生でした。
学校の雰囲気になじめず、不登校ぎみで、うつうつとした毎日を過ごしていました。
その日も、学校を休み、布団にくるまり一日寝て過ごし、しかし少しも気分が晴れないまま、夜中の1時か2時くらいになっていました。
「ああ、また朝になれば、学校に行く、行かないで、葛藤するのだなあ」、と思うとなんともやるせなく、「何かスカッとすることないかなあ」、と考えていたら、ふと以前深夜枠でTVで放送していた映画『華氏451』を思い出し、「実際に、本を焼いたら、どんなふうになるのだろう?」と気になりだし、くさくさしていた憂さ晴らしに、やってみることにしたのです。
暗い気持ちでいた私には、本を燃やすという行為が、背徳的にシビレる感じがしたのでした。お手軽でもありますし。
燃やす本の選定には、いささか苦労しました。お気に入りの本や、高価な本は燃やせません。なので、文庫本で、ろくに読みたいとも思わない本を選ぼうとしました。ただ、「積ん読」になっている本であっても、「読んでみたら面白いかも?」と思うとなかなか手が出せません。悩みましたが、積ん読の本のうち、読もうとするのがプレッシャーになっている本を選びました。学校の課題図書になっていた、武者小路実篤の、何か、だったと思います。理想主義的な白樺派の本は、私がこれからなそうとしている悪行の犠牲としては、ふさわしく思われました。
深夜なので、家族は寝静まり、じゃまの入るおそれはありません。ベランダでことにおよぶことにしました。
万が一の火事を警戒して、バケツに水を汲んでおいて、100円ライターを用意しました。
本が良く燃えるように、ページの半分くらいのところを開いておき、ページの両端に火をつけました。
ばあっ、と激しく燃えるのかな、と想像していたのと違い、本は、1ページ、1ページ、静かに燃えていきました。ページの両端から、中央の綴じのほうへ、さらさらと燃えてゆき、見開きひと組がふわりと燃えつきるころに、次の見開きへ燃え移り、また次へ、という具合でした。まるで開いては萎れてゆく、バラの花のような美しさでした。
しばらくは驚きと背徳感のたかまりのうちに、口を半開きにして見つめていたのですが、次第に何だかこわくなってきてしまったのでした。「本を燃やすことと、人を殺すことは、似ている…」そんな思いがしてきたのです。実篤が一冊燃えつきる前に、ざばーとバケツの水をかけて火を消しました。途中まで燃えかすになって水浸しになった実篤は、まさに死体のようでした。痕跡が残らないように、念入りに後を片付けました。ぐったりとして、そのあと自分の部屋で眠りました。
 
こんなことを、久しぶりに思い出したのは、今日が夏の終わりの肌寒い雨の日だったからかもしれません。

デブが陽気で、何が悪い?

デブになって、よかった。
自分のみっともなさを、すなおに受け入れられるようになった。
ムダにカッコつける虚栄心が、ずいぶんうすまった。
三度のメシが、うまくて、楽しいことに、単純に喜べるようになった。
そりゃまあ、階段のぼるだけで息が切れるとか、セレクトショップでサイズが無いとか、夏の太陽がこわいとか、嬉しくないことは多々ある。
そりゃまあ、痩せていれば、見映えもいいし、健康上の不安も少ない。
が、現にデブである私が、デブを嘆いたところで、痩せるわけではない。ましてや、デブな自分はダメなんだ、デブにはひとから愛される資格は無いんだ、などと思いこむ必然性も全く無い。
ヤセにはヤセの、中肉中背には中肉中背の幸せな生き方があるように、デブにはデブの幸福があるはずだ(たぶん)。
障害者運動で「障害は、個性だ」、と表現することがあるように、「デブは、個性だ」、と言えないだろうか?
そもそも、ひとがひととしての尊厳を認められるために、なにがしかの特別な条件(美しくあらねばならない、賢くあらねばならない、正しくあらねばならない、とかね)など必要ない、と私は考えるのだ。
ただ、そのままでいい。
デブを、ひらきなおってるんじゃないよ。あるがままなり。
「陰気なデブ」とは、あなたも友だちにはなりたくないでしょ?
だから、陽気で行こう!
そうだ、あなたもデブになってみませんか?!もう人生観、ぶっ飛んじゃうかもよ?!

ピーター・パンと車寅次郎

「終わらない思春期」、というふうに、私はプロフィールで自称しているのだが、これは別段カッコつけているつもりは全然無く(四十のオサーンがこんなこと言っててカッコつくわけ無いじゃないっすか!)、むしろ多分に「イタイ」自分を、自虐的に表現したつもりなのである。
なお、蛇足ではあるが、私は尾崎豊に、これっぽっちもシンパシーを感じないたぐいの人間であることを付け加えておく(オザキよりも、オザケンが好き!!)。
「終わらない思春期」の元ネタは、斎藤環『社会的ひきこもり』(PHP新書)のサブタイトルからとったのである。
えーと、何が言いたいのか、先に言ってしまうとだな、「永遠の未成熟」には、似て異なるふたつの様相がある、ということを言いたかったのだよ。
そのふたつというのを、キャラクターで代表させたのが、「ピーター・パン」と「車寅次郎」。
じゃ、このふたり、何が違うのかと。
ピーターは、みなさんご存知、「永遠の少年」。
寅次郎は、大人(カタギ)になれない、「フーテンの寅」。
ピーターは、明確な自分の意思として、大人になることを拒絶しているのに対し、寅次郎は、大人のなり方を学習できないバカ者なのだと思う。
ピーターが子供のままでいるのは、本人の好きずきだが、寅次郎は、もしかしたら大人になりたいのかもしれないのに、大人であることとはどういうことなのか理解できずに、七転八倒しているように見える。
エビデンスは?それは、「恋愛」への意思の有無である。
ピーターは、恋を忌避しているように見える。一方、寅次郎は、失恋を何度繰り返しても、性懲りもなく恋をする。
恋愛とは、「あなた」と「わたし」の二者から成る、対幻想の始まりであり、社会化の契機である。
「ロマンチック・ラブ」と「近代的自我」の確立が、歴史的にほぼ同時期に起きたことを思い出していただきたい。
また、思春期に第二次性徴期をむかえ、異性(ときに同性)に意識がむかうのと同時に、少年少女たちに「自意識」のめばえがおとずれることも、想起されたい。
くりかえす。ピーターは、「大人になりたくない」。寅次郎は「大人になりたいが、なれない」。
これが、ふたりの決定的に異なるポイントである。
また、同じフィクションの登場人物でも、小説あるいはディズニーアニメの世界に住まうピーターに対し、実写映画、それも「渥美清」という「生身の」役者が演じている寅次郎は、否が応でも「老化」していくのである!大人になれないまま、年老いていくのである!そこが、哀しくも美しい。
もう、みなさんはお気づきだろう。そう、私が「終わらない思春期」と自らを標榜するとき、頭にあるのは、断じて「ピーター・パン」ではなく、まごうこと無く、「車寅次郎」なのである。
寅さんと同じく、私もまた、失恋を繰り返し、大人になりきれないまま、すべもなく年老いていくのである。
どうか、みなさんのお情けをかけいただけるのなら、バカで惚れっぽいこんな私を、なまあたたか〜く、笑ってみまもっておくんなさい。

すべてがちょっとずつ嬉しい世界

元来、ひとの人生というのは、不幸なのだと思う。

しかし、にもかかわらず、うかつにも、「幸せだなあ」とか、「嬉しいなあ」とか感じてしまう瞬間が、日常のさなかにしばしばいかんともしがたくあるわけで。

それは、ふと見上げた空のブルーやオレンジに、じーんとなったり。街中でふいにかいだ、カレーの匂いだったり。カーラジオから、懐かしい、お気に入りの曲が流れてきたり。風呂で温まって、その後に飲む、カルピスソーダの「ぷはあ!」とか、あと他にもなんやかや。

そんなときに、「生きているのが嬉しいなあ」と、しみじみ思うのですよ。錯覚に過ぎないと言われるかもしれないけれど。
これって、不幸しかない人生に、ひとが耐えきれないからこそ、神様から人類に与えられた、あるいは人類自身があみだした、「嬉しい」という能力なんじゃないかとか考えちゃうのですよ。
で、そうして、「嬉しい」とか、「楽しい」とか、そんな気持ちを少しずつでも重ねていけたら、私たちはこの先もきっと大丈夫なんじゃないかと思えるのです。なかば確信にも似た思いとして。つらいことや、悲しいことがあったとしても。
私たちがすべきことは、「嬉しい」の感受性を鋭敏にしていくこと。人生をサヴァイヴしてゆくために。
すべてが、ちょっとずつ、嬉しい。そんな世界で。

私の好きなこと

思いがけず、朝早く起きてしまい、太陽が登るのをただ待っているあいだの、夜明け前の静けさ。
会社帰りの電車の窓から、ただぼんやりと眺めている、夕日のオレンジ。
 
会社についてから、そそくさとほうばる、おにぎりふたつのおいしさ。
お気に入りの喫茶店で、ひとりミルクティーとクランベリークッキー2枚を口にする、ゆったり感。
 
気のおけない友人たちとの、お茶とお菓子と、おしゃべり。
愉快な仲間たちとの、酒と肴と、冗談。
 
書店や図書館の、書架のあいだを、好奇心の赴くまま練り歩く愉悦。
ひと駅手前で、電車を降りて家路に向かう、プチ彷徨。
 
映画館で、照明が暗くなるときの高揚感。
美術館で、作品が自分に語りかけ始めたかのように感じる瞬間。
 
日曜日の昼下がり、メロウな音楽を寝そべりながら聴いている至福。
そして、一日の終わり、眠りにつくまで、あのひとのことだけを想うひとときの安らぎ。

愚者の代弁者

 「愚かさ」は、はたして罪なのだろうか?

 

 印象論にすぎない、とされてしまえば、確かにそうなりえるのだが、それにつけても、昨今の世間様を横目でながめていると、やたらと「さかしら」なひとが目につくように思われる。

 いっぱしの、批評家、レビュアー、コラムニスト、エッセイスト、あるいはコメンテーターにでもなったつもりなのだろうか、彼らは?おおよそ、何につけても、一家言ないと気が済まないようなひとたちが多い。その割には、現在の日本の言論空間の空疎さと言ったら、なんなのだ?

 言い訳がましく聞こえるかもしれないが、このような手慰み的ブログをシコシコ書きつづっている時点で、かくいう私自身も、「彼ら」と大差ない人間であることは、謙虚に認める。しかし、である。

 何ゆえ、「彼ら」は、そんなにも自分を「賢く」見せたいのか?「愚かさ」を忌避するのか?

 私には、彼らの、賢く立ち回って、なんでもそつなくこなしていく、みたいな姿勢というか、生き方が、何か責任を回避したり、リスクやコストを引き受けないような生き方に見えるのだ。 

 そんなに、「正解」だけが重要か?また、正しい「解」は、たったひとつしか認められない、とでも言うのか?

 

 想像してみてもらいたい。人の愚かさを一切許容しない社会の、いかに居心地の悪いかを。

 基本、人間が生きていく上では、想定だにしていなかった事態というものが、しばしば起こりえる。「先行きの見えない」時代、などというが、本来、未来に何が起きるのかは、確率論的にしか予想できない。「見通しのきく未来」などというものが、もともと思い込みの産物に過ぎないのだ。

 ならば、どうすればいいのかというと、「トライ&エラー」でやっていかざるをえないのだ。はじめから「正解」にたどり着くことなど、無いとまでは言わないが、まれなのだ。

 ならば、いかに計算しても、計画を練っても、人は過ちをおかすし、失敗だってする。そうした「愚かさ」を人は元来、切り捨てようがないのだ。

 

 「愚かさ」を認めない、ということは、人本来のありかたを否定してしまうことに他ならない。合理主義や理性は大切だが、そうしたものだけで、人間や世界を規定してはならない。自らの知性の限界について、虚心坦懐になるべきである。(「合理性のほころび」を知りたければ、歴史を参照されたい。あまたの、戦争や革命、進歩主義、科学技術の盲信、人間の驕り高ぶりのオンパレードである。)

 

 過ちをおかす愚かさは、致し方ない。真に猛省されるべきは、過ちからなにひとつ学ばないこと。

 

 そして、時代を開くちからは、時にそれまでの世界の常識からは、はずれている、まさに「愚か」な行為とみなされてしまうものにこそ宿るのだということをお忘れなく。

 

 あえて、断言しよう。「愚かさ」とは「自由」であることの、かかすことのできない条件なのだ。

 

 Stay foolish.

 

この素晴らしき世界

 本日、病院。帰り道、駅のほうへと歩きだすと、これまで気がつかなかったのだが、緑道というか遊歩道があった。「ん?これいくと、駅に出られんじゃね?」と思い、足を向けた。

 春の日差しはうららかで、新緑が目にまぶしかった。

 ふと、"I see trees of green,..."というサッチモの例の曲のフレーズが頭をよぎり、にわかに、唐突に実感した。そう、確かに、"What a wonderful world."だった!

 もともとイカレぎみの私の頭が、この陽気で、いよいよ行きつくところまでいってしまいそうになった、それだけのことかもしれない。

 ただ、きわめて主観的な見地から言わせてもらえれば、私は世界の広さと、そこに息づく生命の豊潤さを、全身全霊で感じたのである。

 木々、葉、風、光、芝生の上の子どもとその母親、鳥、さえずり、車、坂道、遠くに見える、駅にすべりこむ電車!生きとし生けるものはもちろんのこと、無生物たちまでもが、この今日という良き日を喜んでいるようだった!

 そして、私は心に決めた。

 私は、この先、何度でも挫折し、くじけ、心折れるだろう。でも、「世界」と「他者」が存在する限り(「世界」、それは私の住まう場所であり、「他者」、それこそ私が求めるもの)、私は何度でも、繰り返し、日々の暮らしをやり直すだろう。

 あの時、道で、私とすれちがったひとたちは、いぶかしんだかもしれない。なぜなら、こののどかな昼下がりに、私は感情の高ぶりの中、ほとんど泣きそうになりながら、顔をくしゃくしゃにして歩いていたのだから。

 

追記:道中、寄り道して、書店で、海猫沢めろんの新刊を買う。先ほど読了したが、また泣きそうになった。今日の私は、なるほど神経過敏かもしれない。