迷光亭冬雀日記

思いつくまま、気の向くまま。行く先もわからぬまま。

三鷹 My Love

東京生まれ東京育ちで「田舎」というものを私は持っていない。
小学生の頃、夏休みに田舎に帰省する同級生たちがうらやましかった。
しかしながら、そんな私にも、田舎とは言えないほどのものではあるのだが、「田舎」らしき場所があった。それは、母方の祖父母が住んでいた三鷹である。
上連雀の平屋の都営住宅は、2Kと庭があり、その庭には祖父が自分で建てた離れがあり、これまた祖父が自分で掘った池もあった。
母屋の部屋の畳に寝転んで、夏の昼さがりに半ばまどろんでいると、調布飛行場から飛び立つセスナのプロペラ音が、ぶうーんとして、子どもの私は何とも言えないのんびりとした気持ちになるのであった。
お正月には、都営住宅の敷地内の広場で凧揚げもした。ただ、その広場の直上には送電線が走っていたので、あまり高くは揚げられなかった。もっとも、チャーリー・ブラウンよろしく、私の凧は滅多に揚がらなかったので気づかいは無用なのであった。
この祖父母の家を根城にして、お出かけ好きの祖父に連れられて、深大寺の釣り堀や、井の頭自然文化園へ繰り出していた(ちなみに祖母は自然文化園の切符売り場で働いていた)。
こうしてみると、私は自分でも意外なのであるが、灰色一色だったように思っていた私の少年時代にも、ビビッドなカラフルな記憶が存在していたことに気づいて驚く。
三鷹、マイラブ。

屋上バカンス

友人がTwitterリツイートしてるのを見て、今日が忌野清志郎の命日であることを知る。
思い立って「トランジスタ・ラジオ」を聴いていて、思い返すのは、「学校の屋上」っていう、あの特別な空間のこと。
学校の中にありながら屋外。教室とはまるでちがう空気感の場所。世知辛い街中と窮屈な教室との絶妙な緩衝地帯。
私の通っていた高校は(厳密にいうと高等学校ですらない)、かなーりゆるくてフリーダムなごきげんな学校だったのだけど、それでも屋上が大好きだった。
天気の良い日には、コンクリの上に寝そべってタバコなどふかしていた。
今の若い子たちも、屋上とか好きなんだろうか?
今思えば、10代後半のあの頃、学校の屋上というあの場所は、私たちに許されたつかの間のバカンスだったんだろう。
いまだに思春期を引きずっている、はずかしいオッサンの私には、学校の屋上を離れて新しい「楽園」なり「リゾート」がどこかに残されているのだろうか?
日曜日の公園、休日午前中の図書館、昼下がりのカフェとか?
でも、ぴったり屋上みたいな空気のある場所ってなかなか見つからない。
エデンを離れるって、こんな感じなのかもしれない。
「こんな気持ち、うまく言えたことがない」。
やっぱ、キヨシローは、ようーくわかってたひとなんだなぁ。
今日も空が青かった。

向日葵の名前

恥ずかしながら、自分を花に例えると、ヒマワリだと自称している。

太陽そのものではないが、太陽に憧れる存在として自分自身と重ね合わせている。
おりにふれ、ヒマワリ好きであると人には話すし、そもそもアカウントのプロフィール写真もヒマワリだ。
 
当然、あの人も私がヒマワリ好きであると知っている。
だから、去年の夏にあの人と待ち合わせして、30分遅れてあの人が来たとき、遅れてごめんね、と言いながらヒマワリの花束を私に差し出してくれたから、それはもう狂喜乱舞する思いだった!
あの楽しい8月の日から、もう7か月たった。
ふたりきりで会うのは、今のところ、それが最後だ。
 
あのヒマワリも、とっくに枯れてしまった。
辛うじて、そのヒマワリの写真を撮っておいたので、それをせめてもの心のなぐさめとしている。
実体は、既に無く、イメージだけが残った。
ただ、虚しく「名前」のみ。

本を燃やしたこと、ありますか?

あなたは、本を燃やしたことがありますか?

私は、あります。
 
私はその時、中学生でした。
学校の雰囲気になじめず、不登校ぎみで、うつうつとした毎日を過ごしていました。
その日も、学校を休み、布団にくるまり一日寝て過ごし、しかし少しも気分が晴れないまま、夜中の1時か2時くらいになっていました。
「ああ、また朝になれば、学校に行く、行かないで、葛藤するのだなあ」、と思うとなんともやるせなく、「何かスカッとすることないかなあ」、と考えていたら、ふと以前深夜枠でTVで放送していた映画『華氏451』を思い出し、「実際に、本を焼いたら、どんなふうになるのだろう?」と気になりだし、くさくさしていた憂さ晴らしに、やってみることにしたのです。
暗い気持ちでいた私には、本を燃やすという行為が、背徳的にシビレる感じがしたのでした。お手軽でもありますし。
燃やす本の選定には、いささか苦労しました。お気に入りの本や、高価な本は燃やせません。なので、文庫本で、ろくに読みたいとも思わない本を選ぼうとしました。ただ、「積ん読」になっている本であっても、「読んでみたら面白いかも?」と思うとなかなか手が出せません。悩みましたが、積ん読の本のうち、読もうとするのがプレッシャーになっている本を選びました。学校の課題図書になっていた、武者小路実篤の、何か、だったと思います。理想主義的な白樺派の本は、私がこれからなそうとしている悪行の犠牲としては、ふさわしく思われました。
深夜なので、家族は寝静まり、じゃまの入るおそれはありません。ベランダでことにおよぶことにしました。
万が一の火事を警戒して、バケツに水を汲んでおいて、100円ライターを用意しました。
本が良く燃えるように、ページの半分くらいのところを開いておき、ページの両端に火をつけました。
ばあっ、と激しく燃えるのかな、と想像していたのと違い、本は、1ページ、1ページ、静かに燃えていきました。ページの両端から、中央の綴じのほうへ、さらさらと燃えてゆき、見開きひと組がふわりと燃えつきるころに、次の見開きへ燃え移り、また次へ、という具合でした。まるで開いては萎れてゆく、バラの花のような美しさでした。
しばらくは驚きと背徳感のたかまりのうちに、口を半開きにして見つめていたのですが、次第に何だかこわくなってきてしまったのでした。「本を燃やすことと、人を殺すことは、似ている…」そんな思いがしてきたのです。実篤が一冊燃えつきる前に、ざばーとバケツの水をかけて火を消しました。途中まで燃えかすになって水浸しになった実篤は、まさに死体のようでした。痕跡が残らないように、念入りに後を片付けました。ぐったりとして、そのあと自分の部屋で眠りました。
 
こんなことを、久しぶりに思い出したのは、今日が夏の終わりの肌寒い雨の日だったからかもしれません。

デブが陽気で、何が悪い?

デブになって、よかった。
自分のみっともなさを、すなおに受け入れられるようになった。
ムダにカッコつける虚栄心が、ずいぶんうすまった。
三度のメシが、うまくて、楽しいことに、単純に喜べるようになった。
そりゃまあ、階段のぼるだけで息が切れるとか、セレクトショップでサイズが無いとか、夏の太陽がこわいとか、嬉しくないことは多々ある。
そりゃまあ、痩せていれば、見映えもいいし、健康上の不安も少ない。
が、現にデブである私が、デブを嘆いたところで、痩せるわけではない。ましてや、デブな自分はダメなんだ、デブにはひとから愛される資格は無いんだ、などと思いこむ必然性も全く無い。
ヤセにはヤセの、中肉中背には中肉中背の幸せな生き方があるように、デブにはデブの幸福があるはずだ(たぶん)。
障害者運動で「障害は、個性だ」、と表現することがあるように、「デブは、個性だ」、と言えないだろうか?
そもそも、ひとがひととしての尊厳を認められるために、なにがしかの特別な条件(美しくあらねばならない、賢くあらねばならない、正しくあらねばならない、とかね)など必要ない、と私は考えるのだ。
ただ、そのままでいい。
デブを、ひらきなおってるんじゃないよ。あるがままなり。
「陰気なデブ」とは、あなたも友だちにはなりたくないでしょ?
だから、陽気で行こう!
そうだ、あなたもデブになってみませんか?!もう人生観、ぶっ飛んじゃうかもよ?!

ピーター・パンと車寅次郎

「終わらない思春期」、というふうに、私はプロフィールで自称しているのだが、これは別段カッコつけているつもりは全然無く(四十のオサーンがこんなこと言っててカッコつくわけ無いじゃないっすか!)、むしろ多分に「イタイ」自分を、自虐的に表現したつもりなのである。
なお、蛇足ではあるが、私は尾崎豊に、これっぽっちもシンパシーを感じないたぐいの人間であることを付け加えておく(オザキよりも、オザケンが好き!!)。
「終わらない思春期」の元ネタは、斎藤環『社会的ひきこもり』(PHP新書)のサブタイトルからとったのである。
えーと、何が言いたいのか、先に言ってしまうとだな、「永遠の未成熟」には、似て異なるふたつの様相がある、ということを言いたかったのだよ。
そのふたつというのを、キャラクターで代表させたのが、「ピーター・パン」と「車寅次郎」。
じゃ、このふたり、何が違うのかと。
ピーターは、みなさんご存知、「永遠の少年」。
寅次郎は、大人(カタギ)になれない、「フーテンの寅」。
ピーターは、明確な自分の意思として、大人になることを拒絶しているのに対し、寅次郎は、大人のなり方を学習できないバカ者なのだと思う。
ピーターが子供のままでいるのは、本人の好きずきだが、寅次郎は、もしかしたら大人になりたいのかもしれないのに、大人であることとはどういうことなのか理解できずに、七転八倒しているように見える。
エビデンスは?それは、「恋愛」への意思の有無である。
ピーターは、恋を忌避しているように見える。一方、寅次郎は、失恋を何度繰り返しても、性懲りもなく恋をする。
恋愛とは、「あなた」と「わたし」の二者から成る、対幻想の始まりであり、社会化の契機である。
「ロマンチック・ラブ」と「近代的自我」の確立が、歴史的にほぼ同時期に起きたことを思い出していただきたい。
また、思春期に第二次性徴期をむかえ、異性(ときに同性)に意識がむかうのと同時に、少年少女たちに「自意識」のめばえがおとずれることも、想起されたい。
くりかえす。ピーターは、「大人になりたくない」。寅次郎は「大人になりたいが、なれない」。
これが、ふたりの決定的に異なるポイントである。
また、同じフィクションの登場人物でも、小説あるいはディズニーアニメの世界に住まうピーターに対し、実写映画、それも「渥美清」という「生身の」役者が演じている寅次郎は、否が応でも「老化」していくのである!大人になれないまま、年老いていくのである!そこが、哀しくも美しい。
もう、みなさんはお気づきだろう。そう、私が「終わらない思春期」と自らを標榜するとき、頭にあるのは、断じて「ピーター・パン」ではなく、まごうこと無く、「車寅次郎」なのである。
寅さんと同じく、私もまた、失恋を繰り返し、大人になりきれないまま、すべもなく年老いていくのである。
どうか、みなさんのお情けをかけいただけるのなら、バカで惚れっぽいこんな私を、なまあたたか〜く、笑ってみまもっておくんなさい。

すべてがちょっとずつ嬉しい世界

元来、ひとの人生というのは、不幸なのだと思う。

しかし、にもかかわらず、うかつにも、「幸せだなあ」とか、「嬉しいなあ」とか感じてしまう瞬間が、日常のさなかにしばしばいかんともしがたくあるわけで。

それは、ふと見上げた空のブルーやオレンジに、じーんとなったり。街中でふいにかいだ、カレーの匂いだったり。カーラジオから、懐かしい、お気に入りの曲が流れてきたり。風呂で温まって、その後に飲む、カルピスソーダの「ぷはあ!」とか、あと他にもなんやかや。

そんなときに、「生きているのが嬉しいなあ」と、しみじみ思うのですよ。錯覚に過ぎないと言われるかもしれないけれど。
これって、不幸しかない人生に、ひとが耐えきれないからこそ、神様から人類に与えられた、あるいは人類自身があみだした、「嬉しい」という能力なんじゃないかとか考えちゃうのですよ。
で、そうして、「嬉しい」とか、「楽しい」とか、そんな気持ちを少しずつでも重ねていけたら、私たちはこの先もきっと大丈夫なんじゃないかと思えるのです。なかば確信にも似た思いとして。つらいことや、悲しいことがあったとしても。
私たちがすべきことは、「嬉しい」の感受性を鋭敏にしていくこと。人生をサヴァイヴしてゆくために。
すべてが、ちょっとずつ、嬉しい。そんな世界で。