迷光亭冬雀日記

思いつくまま、気の向くまま。行く先もわからぬまま。

ことばは人を救えるか

先日、12/2(日)、文化学院・公開講座Ⅲ「ことばは人を救えるか――いま、若者の〈生きる〉を問う 秋葉原事件から」を聴講してきた。講師は作家の辻原登さんと、政治学者の中島岳志さん。第一部が中島さんの基調講演で、第二部が辻原さんと中島さんの対談。「ことば」を大事と考える人にとっては、大変示唆に富む公開講座だったのではないかと思う。

 

そこで、私もことばを書き連ねてみたくなり、こうしてキーを叩いている次第。いや、あの講演の後では、誰しも、ことばを紡ぐ衝動を抑えきれなくなるだろう!それほど心を揺さぶられたのだ。中島さんは努めて冷静に話を進めていたが、受け手としては中島さんの熱い思いをひしひしと受け取ったつもりである。これから書くことは、おもに個人用の講座の振り返りとまとめとなるだろうが、もし、中島岳志という人に興味が出たら、みなさん各自検索してみてください。屋上屋を重ねるかもしれないが何とぞ御容赦。あと、こうして実際に何か書こうとするまで一週間かかったのは、ことばが私の中で熟すのが、それだけの日数が必要だったということです。前置きはこのくらいにして、さて、始めよう。

 

この講座の中心となる話題は、みなさんのご記憶にも残っているだろう、200868日、秋葉原で起きた、無差別殺傷事件である。犯人の名は、加藤智大。事件の凶悪さもさることながら、世の人を困惑させたのは、その動機である。公判の中で加藤は事件を起こしたことを、ネットの掲示板での「なりすまし」があり、それに対する抗議だったとしている。

事件以来、私たち社会の人間は、「派遣労働の問題」だ、とか、「社会的包摂の問題」だ、とか、「ネットのリアル/ヴァーチャルの問題」だ、など様々な推測をしていたのに、である。

「なりすまし…?そんなんで人を殺すなよ!」というのが一番正直な私たちの感想だろう。

この加藤の事件の「原因」と重大な「結果」の乖離こそが、私たちを暗澹たる気持ちにさせたのではないか?その後、事件を巡る論説は退潮していくのだが、これはすなわち、「わからないこと」は「見なかったこと」にしようという昨今の日本社会の風潮であり、これに反発する・異議をとなえることが、『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』を執筆した、今回の講師、中島岳志氏の動機である。中島氏いわく、ことばを紡ぐということは、「わかりやすさ」に真に迫るための「まどろっこしい」手続きなのだ。そのためには、この事件の場合、加藤の生きてきた道筋を丹念にたどらなければならない。詳しくは同書を参照されたい。

講座に戻ると、焦点は次のとおりである。「現実に友達がいるのに、なぜ、加藤は孤独だったのか?」中島氏はそのひとつの解釈として、「自己承認」の問題を挙げる。加藤がこだわったのは「本当の自分」を知って欲しいということだったと。

ジャン=ジャック・ルソーがここで参照される。ルソーによれば近代社会の個人(=”文明人)は「二重に疎外」されている。ひとつは他者からの疎外であり、もうひとつは自己からの疎外である。普段、私たちはごく表層的なことばや、表情によりコミュニケートしているが、この表層の外観の下に、いわばベール(=”障害)に隔てられた内面にこそ、「本当の自分」がいる。本当の自分がベールに覆われているのなら、自分自身も、自己について知ることができない、ということである(人は自己を認識するのに「鏡」が必要となる。一般的にはそれは他者と他者からのまなざしである)。このベールを取り去った、本当の自分と本当の自分の、直接的な交感、内面と外観が一致した人間的なコミュニケーションの状態をルソーは「"透明な関係」とする(それが可能なのが、高貴なる野蛮人であり、あるいは子どもex.)『エミール』)。この「"透明な関係」の共同体の上位に市民の熟議に基づく「一般意志」が成立するという。これは、のちにファシズムを誘発した。

本筋に戻す。加藤が欲していたのは、この「"透明な関係」であったのではないかと、中島氏は推察する。しかし、加藤の場合には、幸か不幸か、ルソーの時代には存在していなかった「ネット」があった。加藤は、「ネット=本音」/「リアル=建前」の二分法で世界・社会を解釈していった。しかし、ネットとは素晴らしいものかもしれないが、リアルに比して決定的に欠いているものがある。「身体」である。ネットはその特性上、基本「言葉」だけで成立してしまう世界であり、「脱・身体」的空間である。「身体なき」がゆえの「自由」と、「身体なき」がゆえの「不自由」が存在する。不自由とはつまり、身体を持たないために自己のイメージが、自分自身にとっても、他者にとっても、不確定で揺らいでいる、という点である。文字だけの交流では、その「文体」さえ模倣してしまえば、悪意あるものは誰でもなりすましができてしまうのだ。残念なことに、「リアル=建前」と早計してしまった加藤には自己の内的吐露をする場所が、ネットにしか求められなかった(むろん例外的にリアルの世界でも本心を語る契機がありはしたのだ、加藤にも。ex.)職場の先輩の「藤川さん」の一件。だが加藤はその貴重な経験を忘却してしまったのだろうか?)。そのため、自らの「聖域」、「最後の拠り所」、そして「"透明な関係」の場所である、掲示板を「なりすまし」に荒らされたことが、加藤の激しい怒りの「弾丸」となった、と、このように中島氏は論旨を展開していった。

こうした考察を加藤の事件に加えることにより、あの事件が、「わけのわからん」輩が、「わけのわからない」事件をおこした、ということではなく、この「動機」が近現代を生きる私たちひとりひとりについても、決して他人事ならざるコミュニケーションを巡る極めて実存的かつ普遍的な問題である、との解釈可能なものとなる。

 

ここまでが第一部である。いささか私の説明が長くなってしまったので、第二部のトークセッションについては、略させて頂く。ほんのさわりだが、ヘレン・ケラーとサリバン先生、フロイトヴィトゲンシュタイン小林秀雄、バンプ・オブ・チキン、ニーチェ永山則夫ドストエフスキー川端康成、福田恆存、見田宗介大澤真幸浅田真央、ヴァレリー、プラトン、マハトマ・ガンディー、西田幾多郎、らが引き出された。

 

この講座の会場に向かう途中、私は秋葉原駅で電車を降り、歩いて事件現場の交差点へ行き、しばし合掌した。無念にも命を落とした死者へ報いることができるのならば、それはこのような事件が起きてしまった事を忘れず、何度でも事件に立ち返り、「なぜ?」と問い、考え、ことばを紡いでいくこと、なのだろう。

 

私も、この事件を忘れない。

そして、ことばのちからを信じることをあきらめない。