迷光亭冬雀日記

思いつくまま、気の向くまま。行く先もわからぬまま。

欠けていることと幸福

 私が今、普段はいているジーンズに、一か所、色落ちしていて穴があきそうになっているところがある。意図的にダメージ加工したものでなく、以前道路をナナメ横断して歩道のガードレールを乗り越えようとして転倒、体前面から倒れこみ、膝を路面に打ち付けた時にできたものである。

 人の目を気にしなければ別段着用には問題ないし、気にするのであれば新しいものを買えば済むのだが、気にしつつも買い替えていない。

 カネを惜しんでいると言えばそれまでだが、一か所のダメージを気にし過ぎて、新しいものに乗り換えるというのも、なんだかなぁ、というところ。

 なぜ、こんな些細なことにこだわっているのか、それは私自身が俗に言う「こわれもの」だからであろうか。

 あまりつまびらかにはしないが、私には複数の「障害」がある。

 自分の境遇を、「ついてねぇなぁ」と思ったことはあるが、おおむね「幸福」ではあるし、まして「不幸」だなどと思ったことは一度もない。

 傷は、無いならないにこしたことはない。しかし、傷がいくつかあったところで「幸福」の支障には(さほど)ならないだろう。

 無傷で、満ち足りた状態のみを「幸福」と呼ぶのなら、私たちはたいていが皆、「不幸」と定義されてしまうだろう。だが、欠落を無理に埋めようとするのではなく、そのまま受け入れることで心が自由になれるのであれば、それはそれで「幸福」なのだ。

 端的に言って、「幸福」とは条件の問題ではなく、「気の持ちよう」だ。

 ここで私が言いたいのは、精神面での幸福についてである。「衣食足りて礼節を知る」というが、「衣食足りてない」人たちにまでこの考えを押し付けるつもりはない。

 「幸福」になれるのは、ひとが「幸せになりたい」と欲するからこそであろう。自ら幸福になろうとすれば、幸福の門は誰にでも開かれている。

 「欠落」は「幸福」の障害ではない。むしろ、「最初の一撃」なのだ。

 

 傷もののジーンズをはきながら、こんな事を考えてみた。