迷光亭冬雀日記

思いつくまま、気の向くまま。行く先もわからぬまま。

呪いのことば、祝いのことば

 以前読んだ、内田樹中沢新一の対談本に、件名のような話が出ていた。区立図書館で借りて読んだ本なので、今手元には無く、具体的に書いてあったこともうろ覚えだが、印象的だったので、こころにひっかかっている。

 「ことば」は、それを用いるひとの心掛け次第で、また、使い方次第で、薬にも暴力にもなる。と、あたりまえのようなことをわざわざ指摘させていただく。

 「正しい」ことばだけで、人のこころは動くものでもない。こころに「とどく」ことばが、人のこころを動かす。自分(だけ?)がこうと思う正論で人を論破しても、相手の人は不愉快になるだけで、ますます頑なになるだろう。そこで、どうしたら納得してもらえるのかについて、頭をひねり、こころを砕いて、ことばを選び、語調に気をつけ、対話や説得の策を講じるのが、理知的な態度だろう。感情的なことばは、「火」のようなものだ。うまく使えば、便利なものだが、迂闊に使えば、火傷や火事をひきおこす。『ナウシカ』の「風の谷」の人々のことばにちなめば、「風と水」のことばが必要、というところか。

 さて、ネットがこの日本でも普及して、はや20年近く。誰もが自らの思うところを「ことば」にして世に流せる時代。巷にあふれる「ことば」は、私たちを幸せにしてくれているだろうか?私たちのこころは愛や希望に満ちているだろうか?…ま、あんま、そういうことはないよな。www

 そこで「呪いのことば」と「祝いのことば」というキーワードが、重要なのです。

愚痴や批判や、disるたぐいのことばは、それがどれほど「正し」かろうと、「鋭い」ものであろうと、人を幸せにしない。呪いのことば。人が心底、「喜ぶ」、「楽しく」なることばをつむいでいかなくては。祝いのことば。

 いやね、耳触りのいいことば、きれい事のことば、とは違うものでなくてはならないのはもちろんのことですよ。ただ、人と人が「ことば」を交わす以上は、相手の立場おもんばかり、異なる意見に対しても最低限の敬意をはらうべきだと、私は思うのです。ですから、自然、私の政治的態度は「リベラル」です。「結論」をバシっと言うのではなく、「プロセス」や「コンセンサス」を大事に考えます。それは、遅々として思うようには前にすすまず、「かったるい」手続きです。しかし、大多数の人々の幸福のために、一部の少数の人を犠牲とするのを良しとしない態度であります。ちかごろ、リベラル派は旗色悪いですが。

 「呪い」と「祝い」の話に戻りましょう。私が、匿名の掲示板サービス(はっきりいって、「2ちゃんねる」)を忌避して、顕名のFacebookコテハンTwitterに期待を寄せるのは、後者が「祝い」に近い、と考えるからであります。なるほど、匿名ならば、思う存分「本音」を書き散らかせるでしょう(実際にはログが残りますが)。しかし、そこには「受け手」、「読み手」への配慮がとぼしい。言いっぱなし・書きっぱなしなのです。顕名ならば、配慮が伴うのか、というと必ずしもそう言い切れない面もありますが、少なくとも、自分が発した「ことば」への反論を想定することになります。そこには「他者」が存在するのです(ここで「他者」という言葉をつかいましたが、これって結構、「サヨク」のつかうマジックワードだったりしますが、私には重要な概念なのであえて使います)。

 この「世界」には「自己」と「他者」が70億存在している、そんなごく単純な事実をふまえれば、私たちは自分たちの住まう「世界」や「社会」をより良い方向へ変えてゆける、「祝いのことば」をつむいでいくための一歩を踏み出せると思うのです。

 はじめは、自分とまわりの人から、そしてその輪を外へ外へとひろげていって…。

 

---You may say I'm a dreamer ?