迷光亭冬雀日記

思いつくまま、気の向くまま。行く先もわからぬまま。

猪八戒主義とその顛末

 木皿泉のエッセイからの孫引きとなるが、『西遊記』の猪八戒が沙悟浄に語りかける。以下引用。

 

あるとき八戒が俺に言ったことがある。「我々が天竺へ行くのはなんのためだ?善業を修して来世に極楽に生まれんがためだろうか?ところでその極楽とはどんなところだろう。蓮の葉の上に乗っかってただゆらゆら揺れているだけではしようがないじゃないか。極楽にも、あの湯気の立つ羹(あつもの)をフウフウ吹きながら吸う楽しみや、こりこり皮の焦げた香ばしい焼肉を頬張る楽しみがあるのだろうか?そうでなくて、話に聞く仙人のようにただ霞を吸って生きていくだけだったら、ああ、厭だ、厭だ。そんな極楽なんか、まっぴらだ!たとえ、辛いことがあっても、またそれを忘れさせてくれる・堪えられぬ怡(たの)しさのあるこの世がいちばんいいよ。少なくとも俺にはね。」そう言ってから八戒は、自分がこの世で楽しいと思う事柄を一つ一つ数え立てた。夏の木陰の午睡。渓流の水浴。月夜の吹笛。春暁の朝寝。冬夜の炉辺歓談。……なんと愉しげに、また、なんと数多くの項目を彼は数え立てたことだろう!

中島敦「悟浄歎異」『李陵・弟子・名人伝』所収 角川文庫)

 

 なんともはや、素晴らしい考えではないか!いたく感心した私は、おおよそ2年前にこの一文を読んでから、機会さえあればこの考えを「猪八戒主義」として友人・知人に喧伝して回り、自らその実践者となり、日々過ごしていた。

 しかして、その結果はいかに、というと、過去ログをお読みいただければお分りになるとおり、私の生活はいささか破たんした。

 この2年間、私は欲望のおもむくまま、やりたい放題に生きてみたのだが、人間の欲望というものには際限がなく、ほっておくとどうにも自分の手に負えないことになってしまうものだと痛いほどよく分かりました。人間、欲望するにも、それに見合うだけの体力や精神力が必要なのですね。

 そこで思い出したのが、古代ギリシャの哲学者、エピクロス。私の知っているのは『SFマガジン』の哲学コラムの聞きかじり程度なので、哲学に詳しい人からツッコミされそうだが、エピクロスの「快楽主義」のキモは、「腹八分目」なのだそうだ。真に人生を楽しみたければ、野放図に快楽を追い求めるのではなく、節度が必要なのだ、ということらしい。(ちなみにエピクロスが至上の快楽としたのは「友愛」であり、目指すべきは「心の平安」だと唱えたらしい)

 結局は、「バランス」が大事なのですね。今なら良く分かる気がします。

 ひるがえって、「猪八戒主義」。いやね、これはこれでやはり魅力的なものの考えでしょう。安易に「悟り」を開いた気にならず、欲を素直に見つめて生きるのも肝心かと思います。

 自らの内なる「貪欲さ」"greed"と、その根源たるこころの「欠落」"want"と、どう折り合いをつけて(あたかも暴れ馬のたづなを繰るように)、自分の人生を本当に楽しく生きていくかが、今後、私の生涯の課題となるのでしょう。

 はめをはずさないように、でもときにははめはずしちゃったのを反省しつつ、この限りあるが豊かな人生を楽しもうではありませんか、みなさん!

 ただ、吾唯知足、吾唯知足…。