迷光亭冬雀日記

思いつくまま、気の向くまま。行く先もわからぬまま。

ピーター・パンと車寅次郎

「終わらない思春期」、というふうに、私はプロフィールで自称しているのだが、これは別段カッコつけているつもりは全然無く(四十のオサーンがこんなこと言っててカッコつくわけ無いじゃないっすか!)、むしろ多分に「イタイ」自分を、自虐的に表現したつもりなのである。
なお、蛇足ではあるが、私は尾崎豊に、これっぽっちもシンパシーを感じないたぐいの人間であることを付け加えておく(オザキよりも、オザケンが好き!!)。
「終わらない思春期」の元ネタは、斎藤環『社会的ひきこもり』(PHP新書)のサブタイトルからとったのである。
えーと、何が言いたいのか、先に言ってしまうとだな、「永遠の未成熟」には、似て異なるふたつの様相がある、ということを言いたかったのだよ。
そのふたつというのを、キャラクターで代表させたのが、「ピーター・パン」と「車寅次郎」。
じゃ、このふたり、何が違うのかと。
ピーターは、みなさんご存知、「永遠の少年」。
寅次郎は、大人(カタギ)になれない、「フーテンの寅」。
ピーターは、明確な自分の意思として、大人になることを拒絶しているのに対し、寅次郎は、大人のなり方を学習できないバカ者なのだと思う。
ピーターが子供のままでいるのは、本人の好きずきだが、寅次郎は、もしかしたら大人になりたいのかもしれないのに、大人であることとはどういうことなのか理解できずに、七転八倒しているように見える。
エビデンスは?それは、「恋愛」への意思の有無である。
ピーターは、恋を忌避しているように見える。一方、寅次郎は、失恋を何度繰り返しても、性懲りもなく恋をする。
恋愛とは、「あなた」と「わたし」の二者から成る、対幻想の始まりであり、社会化の契機である。
「ロマンチック・ラブ」と「近代的自我」の確立が、歴史的にほぼ同時期に起きたことを思い出していただきたい。
また、思春期に第二次性徴期をむかえ、異性(ときに同性)に意識がむかうのと同時に、少年少女たちに「自意識」のめばえがおとずれることも、想起されたい。
くりかえす。ピーターは、「大人になりたくない」。寅次郎は「大人になりたいが、なれない」。
これが、ふたりの決定的に異なるポイントである。
また、同じフィクションの登場人物でも、小説あるいはディズニーアニメの世界に住まうピーターに対し、実写映画、それも「渥美清」という「生身の」役者が演じている寅次郎は、否が応でも「老化」していくのである!大人になれないまま、年老いていくのである!そこが、哀しくも美しい。
もう、みなさんはお気づきだろう。そう、私が「終わらない思春期」と自らを標榜するとき、頭にあるのは、断じて「ピーター・パン」ではなく、まごうこと無く、「車寅次郎」なのである。
寅さんと同じく、私もまた、失恋を繰り返し、大人になりきれないまま、すべもなく年老いていくのである。
どうか、みなさんのお情けをかけいただけるのなら、バカで惚れっぽいこんな私を、なまあたたか〜く、笑ってみまもっておくんなさい。