迷光亭冬雀日記

思いつくまま、気の向くまま。行く先もわからぬまま。

道徳の教科書なんかいらない!

正直に言って、あまり自分を善人だと思えたためしがない。いや、それならば悪人だと思っているのかというとそんなこともないのだが。

ただ、ことばにするならば、ある種の「道徳の過剰さ」とでも言うべきものにうんざりしている節はある。

もう少し具体的に言えば、道徳を人の生きる上での指針として掲げるのならばまだ良いが、ガチガチの規範にしてみたり、反道徳的とみなした他人をフルボッコにするための棍棒として使用したり、道徳性を追求し過ぎて人間性まで抑圧する、そのような道徳のあり方に辟易するのだ。

例えば「道徳の教科書」のような歌や物語が、ほんとうに人のこころをふるわせることがあるだろうか?僕は極めて疑わしいと思う。ならば、「道徳の教科書」のような生き方で、ほんとうに他者とこころを通わせることができるだろうか?こちらもやはり僕は極めて疑わしいと思う。

古典的な哲学は「真・善・美」を探求したのだろう。でも僕が惹かれるのは「実存」についての哲学だ。

特別、学問的な関心からそのような志向になったわけではなく、現に存在している僕が、早い話、生きづらさを感じているからだけのことなのだが。

僕は実存的な僕のありようを、ただあるがままに肯定したいと思う。自分がこのような自分であることに躊躇しないようになろうと思う。良い意味での自分本意に生きて行きたい。

そしてその先に、自分とは異なる、別の可能的人生を送っている「他者」と、部分的にだけでも良い、こころを通わせたい。

ならば、自分を尊ぶのと同時に他者も尊ぶのだ。ある人の生を尊重するのに特別な条件など必要ないのだ。

論旨がずいぶん遠回りした。「生」、あるいは「人間性」を抜きにして道徳を語るべきではないのだ。道徳は人間の「鋳型」ではなく、「衣服」であるべきだ。型にはめるものではなく、身にまとうものだ。主体はあくまでも人間なのであって道徳ではない。

このとき、「人間」とは善なのか悪なのか?誰が善悪の「裁きつかさ」になれる資格があるのか?少なくとも「道徳の教科書」は「法典」とはならないだろう。善にも悪にもなれるのが人間。いやむしろ善と悪が共存しているのが人間。「道徳の教科書」の出番は無い。しいて言えば、常識的なマナー本としての役割以外には。

真の道徳とは、人間の割り切れなさへの感覚を持ちながら、同時にちったぁマシな人と人との営みを優しく見守るまなざしのようなものであるべきで、実にそうあってほしい。

僕は善人でも悪人でもなく、「にんげん」として生きて行く。「道徳の教科書」ではなく、「やさしいまなざし」とともに。

 

(この文章をここまで読んでくれたみなさんを驚かせることになるが、この文章は『天気の子』と『ジョーカー』を観てモヤモヤ考えた末に書かれている。もはやふたつの映画との接点がどこにあるのかわからなくなってしまったが。でも、そのふたつの映画とあながち無関係と言いきれないようにも思える。以上、蛇足)