迷光亭冬雀日記

思いつくまま、気の向くまま。行く先もわからぬまま。

ハートフィールド、またたび……

 「夜中の3時に寝静まった台所の冷蔵庫を漁るような人間には、それだけの文章しか書くことはできない。」と、村上春樹は彼の処女作『風の歌を聴け』でそう書いている。
 ついさっきまで、夜中の3時過ぎに冷蔵庫を漁って、スライスハムとゆで卵を食べ、それでも飽き足らずにレトルトの牛丼まで開封してしまっていた僕は、春樹の慧眼っぷりに感銘を受け、胸が「ずっきゅん」となり、なかばヤケクソ気味に今眠れずにThinkPadのキーボードを叩いている。それじゃあ、おもいつくままに「僕の春樹論」でも書いてみようか、って気になったんだよ。
 
 高校時代の友人、Mちゃんは、春樹の作品を読む。僕は春樹の「文化系マッチョ」しぐさが一時期鼻についていたので、彼女が春樹好きだという話をしたのを聴いて、女性の春樹ファンは、なぜそんなマッチョがいいのだろうと思うと不思議でならなかった。その後、意外なことをきっかけに、その謎が解けた(と思えた)。Mちゃんは『科捜研の女』という沢口靖子主演の、まあなんというか、やくたいもないTVドラマを欠かさずに見ているというそうな。ひとりのうつくしく、ユーモアのセンスにもあふれる、彼女のような魅力的な女性の中で、『科捜研の女』と春樹が両立するとは?彼女が『科捜研の女』を見ている理由は、「見ている間は、何にも考えなくて済むから。だってぺっらぺらだし」ってことなのだ!ここで合点がいった。だって、春樹も「ぺっらぺら」な文体の作家なのだから!
 
 ここで、Mちゃんの親友、Rちゃんを比較対象にする。Rちゃんは、幼少の頃より、岩波少年文庫とかで、ケストナーリンドグレーンを読んでいたというくらいの教養とセンスゆたかな女性なのだが、先のMちゃんの趣味が信じられないという。そりゃあ、まあその通りだろう。しかし、赤川次郎星新一から小説を読むことの楽しさを初めて知り、中学生の時に村上春樹で純文学の世界の扉を開けた僕のような人間にとっては、Rちゃんの生まれ育った、教養に満ちた文化資本のゆりかご、なんてもののほうがよっぽど「浮世ばなれ」している、「稀に恵まれた」環境だったんではないかと思った。
 
 三人目のサンプルとして、僕自身のことを挙げる。僕の家は、おじいちゃんから続いた零細の町工場の印刷屋である。出版物の世界のヒエラルキーでは、出版社がその頂点であり、ついで取次会社(日販とか東販とか)、その下に製本屋と大手印刷会社がきて、零細の印刷屋は底辺である(実はさらにその下というのがあり、製版屋である)。そんな印刷工場(「こうじょう」ではない、「こうば」である)兼事務所兼住居の、違法3階建て木造建築で育ったのが僕だ。そのような環境では本棚はあっても「本らしい本」なんてものはあろうべくもなく、あるのは『大日本帝国陸軍百年史』とか『レタリングの技法~入門編~』とかで、児童文学の「じの字」もない、そういう環境だったんだよ!
 
 そんな環境で育った僕が中学二年生の冬に、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』なんて小説を「つい、うっかり」読んでしまったものだから、そのときの衝撃と感動といったら……!!あなたには想像できますか?まさに「蒙を啓かれた」かんじ!雲の隙間から光の柱が降りてきたみたいな、大地の裂け目に飛び込んだら「アレフガルド」とかいう別世界があったみたいな、そんなかんじ!だからもう夢中になって、春樹の「青春三部作」から、『ダンス・ダンス・ダンス』、『ノルウェイの森』、『カンガルー日和』、『回転木馬のデッドヒート』、etc.、読み漁ったんだよ!砂漠をさまよっていた男がようやっとの思いでオアシスにたどり着いたみたいに、カラカラののどに水をがぶがぶながしこむように!
 
 その後の僕は、春樹を入り口として、フィッツジェラルドヘミングウェイサリンジャーカポーティー、カーヴァー、ジェイ・マキナニージョン・アーヴィング、P・K・ディックを読んでいった。中学を卒業するころには、『羊をめぐる冒険』の主人公にあこがれて、将来は翻訳の仕事がしたいと、英語の専門コースのある高校に進学を決めるようになった。そのくらい、春樹に夢中だった。
 
 高校に入ると、それから読むようになったのは、先にも挙げた、P・K・ディックを皮切りに、ウィリアム・ギブスンブルース・スターリングJ・G・バラード、A・C・クラーク、グレッグ・ベア、などのSF小説で、春樹とプロパーなアメリ現代文学からは離れてしまい、二回目の高校3年から浪人していたころには、社会学・心理学・哲学の本に関心が移っていった。
 
 二十歳を過ぎるころには、春樹の小説の主人公「僕」が、むやみに、いともやすやすと女の子たちと付き合い、たいていそのまま「寝て」しまうご都合主義に嫌気がさして、僕は春樹を読まなくなってしまった(唯一の例外が『ねじまき鳥クロニクル』で、これは読んで、かつ面白かったのだけれど、「『羊をめぐる冒険』の焼き直しじゃん」くらいの評価しか与えなかったのだ、当時の僕は)。
 
 それから十数年の時を経て、僕は、東浩紀に私淑するようになり、ある時Youtubeで「セカイ系の生みの親、春樹」とかいう動画を発見し、そこで東さんが語る「セカイ系作家」、具体的には新海誠谷川流滝本竜彦、ギャルゲーでいうと『AIR』、『CLANNAD』などに春樹がいかに深く影響を与えたか、という半分与太話・半分マジみたいな話を聴くことができた。それはほんとうに、「目からウロコ」な話だった!
 
 そうしてまた改めてアラフォーになってから春樹を再読すると、中学生の僕にはリアルにはわからなかった、喪失感、非日常感、「三十五歳問題」やなんやかやが、非常にクリアに読み解けるようになっていた。僕はやっぱり「ハルキ・チルドレン」なんだったんだなあ、とその時、確信した。
 
 話は元に戻り、MちゃんとRちゃんのこと。
 Mちゃんや、僕のような人間には、たとえそれが「ぺっらぺら」な小説であったにせよ、どこか切実に「春樹文学」を必要とする下地、あるいは欠落があるのだろうと思う。Mちゃんは、僕のようにそこまで自覚的にではなく、もっと単純に感覚的に春樹を好んでいるのだろうけど。そして「そんな気持ち」のヒリヒリした切実さは、Rちゃんのような才能にも環境にも恵まれたひとには、わからないんだろうな、と思う。たぶん。
 
 明治の頃の日本人が、漱石先生の小説を近代日本人のバックボーンとして身に埋めこんだように、昭和後期~平成終わりまでの日本人、特に僕と同世代の70年代生まれの男性は、春樹の小説がバックボーンとなっている人が多いのではないか、とロクなエビデンスもなく僕は信じている(余談だが、70年代生まれの「文化系男子」で春樹の洗礼などこれっぽっちも受けていない、などと豪語するような奴がいたとしたら、僕はそいつを全く信用しない!!)。
 
 2020年現在の日本で、売り上げが200万部を超えて読まれる、平成期では日本人として唯一「世界(セカイ?)文学」者とみなされる作家が、春樹以外に存在するだろうか?たとえ「ぺっらぺら」な文学であったにせよ。
 春樹を笑うひとは、春樹の背後にいる、世界全体の数百万の読者たちのことも、まるごとひとまとめに笑えるのだろうか?
 「あなたには『ハルキ』が幻に見えたとしても、その『ハルキ』を現実として読んでいる人たちがいる。あなたはその人たちも幻に見えるの?」(『パトレイバー The Movie 2』、南雲隊長のセリフのパクリ)
 
 「たかが、春樹。されど、春樹」。
 
 タイトル回収。「股旅」、いいよねー!「フーテンの寅」みたいで。ネコも、まっしぐら!!(ちがうか)
 
 眠れない夜の勢いに任せて、変なテンションで書いた文章。だからとうぜん、オチなどない!
 これでいいのだ!
 
 さ、もう朝だし、寝よ。
 みなさん、おやすみなさい。