迷光亭冬雀日記

思いつくまま、気の向くまま。行く先もわからぬまま。

うう。つらい。だけど…。

ぼくは、「つらい」と口にするだろうけど、じぶんを「憐れもう」としたくはない。

「世界で一番不幸なのは自分」とか「自分だけがつらい思いをしている」とも思いたくない。

ひととの比較ではなく、「じぶん自身の、固有のつらさ」に、面と向かっていたい(たとえ、ぼくがとてもひ弱で、すぐくじけてしまう人間であるにせよ)。

負けちゃうけど、負けない。

ともだち、ってね。

ともだちについて、ちょっとだけかんがえてみる。

子どもの頃のともだちは、わりとたいした理由もなく作れていたと思う。

学校の帰り道が途中まで一緒とか、クラスで席が近くだったとか、母親同士が仲良かったのでなんとなくとか。

これが大人になると、ともだちのハードルはなにか妙に上がってしまっているように思う。

趣味が同じ、価値観が近い、利害関係が一致している、とか。単に職場が一緒、ということだけだと、「知人」以上「ともだち」未満、なんてことになる。

子どもの頃は、(程度の差はあるにせよ)「ともだちを選ぶ」なんてことはしなかったはずなのに、大人になると「意味のある人間関係」を除いて「ともだちの断捨離」なんてしかねない雰囲気が出てくるようだ(ぼくもひとのことばかりとは言えないのだが)。

このあたり、性別にも、世代にもよるんだろうけど。いまの時代的なものもありそう。

「中年独身男性の孤独」が社会問題になるのも、まぁ、そうなるわな、という気もする。

「ひととひと」、「ひとと社会」のありようを、「合目的性」や「合理性」だけでかんがえず、「ムダ」や「無意味」(でも、それらは「楽しい」かもしれない)も大事にしてかんがえていられるように、そんな世の中でありますように。

じぶんの人生がつまらないとき

じぶんの人生がつまらないと思うとき

それはたのしさの感受性が落ちているんだろう


だからそんなときにはゆっくり休むといい

そしたらきもちがやわらかくのびのびするはず


そのときだ、たのしさのこころがおどりだすのは

目にするかたち、耳にする音、ふれるもの、香るにおい、あじわい

そしてよろこびや、うれしいこころ


ほら、おどろくはず、人生と世界のあまりのゆたかさに


かんたんじゃないかも

でもだれにもできるよ

きっと!

通勤電車の中で(ある朝のメモ)

今朝も、いつもの時間に家を出て、いつもの電車に乗った。

ドアが閉まって、車内が少し揺れて、みんな同じ方向を向く。


ふと見ると、やっぱりというか、ほとんどの人がスマホを見ている。

片手に画面、耳にはイヤホン。

外の音は遠くなって、視線はそれぞれ別の世界に沈んでいる。


ぼくもその一人だ。

ニュースを読んだり、音楽を聴いたり、どうでもいい記事を眺めたりしている。

便利だし、退屈しなくていいし、助かっている部分はたくさんある。


でも、今日はなぜか、ふとスマホから目を離した。


「あ、こんなに人がいたんだな」


ぎゅうぎゅうに詰まった車内。

身体はすごく近いのに、心はそれぞれ別の場所にある感じがする。

誰とも話していないし、誰とも目も合わさない。

なのに、同じ電車に乗って、同じ時間を過ごしている。


少し前までは、電車の中にもっと「間(ま)」があった気がする。

本を読んでいる人、ぼんやり外を見ている人、

何もせずに立っている人。

その何もしていない時間の中に、

「同じ空間にいる」という感じがあった。


今は、間があればすぐ埋められる。

退屈する前に、画面を開ける。

その分だけ、周りの世界は少し遠くなっているのかもしれない。


自由って、こんなに一人きりのものだったっけ、と思う。

誰かと同じ場所にいて、

同じ時間を過ごして、

ぶつかったり、すれ違ったりしながら、

少しずつ形になっていくものじゃなかったか。


だから今日は、スマホをポケットに入れたままにしてみた。

広告を見る。

窓に映る自分の顔を見る。

眠そうな人、考えごとをしていそうな人、

ただ立っているだけの人を見る。


それだけで、世界が少し戻ってきた感じがした。


スマホを触らない時間をつくる」なんて、大げさな話じゃない。

ただ、目と耳をひらいて、「ここ」に戻るだけのことだ。


電車はいつもの駅に着いて、

いつものように人が降りていく。

ぼくもその流れに混ざりながら、

今日のこの小さな気づきを、忘れないでいようと思った。

 


筆者注:「迷光亭冬雀 × ChatGPT(対話から生まれた合作の文章)」

いま、冬。

いま、冬。

過ぎた夏の日々を惜しむのはもうやめよう

いま目のまえにひろがる景色にこころをむけよう

冬の日には冬の美しさがあるのだから


ぼくは世の中に真向かいにむきあいたい

ひととはときに正面から、ときに同じ方をむいて

きちんと姿勢を正して生きてみたい

(それがぼくのような人間には、かないがたくても)

 

過ぎた夏も季節が巡ればまた訪れるだろう

そのときを心待ちににしながら

冬のきびしい、きっぱりした空気にからだをさらしていこう

 

テニスンの鐘が、きっとぼくの味方だ。

人手不足を解消って言っても、ねぇ。

少子高齢化とか人手不足を解消するのに、AIやロボットを導入してみては、という主旨の話がFacebook のタイムラインに流れてきた。

カチンときた。

以下、カチンときた理由。

労働をAIやロボットが担えば、人手不足に対処できるのかもしれない。が、一転「人あまり」になる可能性は考えないのか?

代替の「新しい仕事」に余剰労働力が、すべて吸収できるのか?

あるいは、将来、人間は「純粋な消費者」としての生活が可能となるのかもしれないが、「消費」の原資となる「カネ」はどうやって調達するのか?ベーシックインカムか?BIの原資は税金か?全てのAI・ロボットを国有化するのか?それともGAFAMみたいな大企業に重課税するのか?あるいはAI・ロボット自体に課税するのか?

そこまで労働の自動化をしないとしても、「余剰労働力」となりそうな、外国人、高齢者、障害者、一部女性、勤労学生、などをどう処遇するのか?

「情弱」のオレが、パッと思いつくだけでも、これだけ色々考えるべき事項があるのに。

「テック系」のひとたちは、もう少し社会とか労働とか政治とか(あと人文のことも!)考えてくださいよ…。

オレは、人間が人間に向かって「あなたは必要がないです(だから生きてても意味無いっス!)」みたいな世の中が来そうで、こわい(もうそうなっているとも言える)。

テクノロジーの進化、はテクノロジーそれ自体の進化であって、「人間の進化」では断じてない。

ファミレスの注文タブレットや配膳ロボットをみて、それだけで「労働」と「人間」を切り離すような発想は、まぁ、してみるだけならいいけど、安直に「テック」を「政治」に導入!とかいうのは、勘弁してもらいたいものだよ。

人間が人間を軽んずる事、なかれ。

 


(人手不足の解消については、オレはとくに対案は無いです。だけど必要なのは、「テック」そのものというよりは、「人の智慧」を政治の場で出し合うことなんだと思ってます。急進改革ではなく、穏健保守の、じっくり・ゆっくりの議論が大事だと)

年賀状のあて名書きを、ワープロにさせた時

年賀状のあて名書きを、ワープロにさせた時、

おお、便利!と思ったいっぽう、さみしくも感じた

ぼくの字のクセや、ヘタウマさが、

「ああ、もう気にしないでイイっすよ、そんなこと」と

ワープロから言われた気がして

 

それからもうずいぶんたったいま

もう年賀状じたい、だれかに送ることじたい、

やめてしまうひとも珍しくなくなった

 

年賀状のあて名書きを、ワープロにさせた時の

あのさみしさを、

「うん、そうだったね」と思い出してくれるひとたちも、

やがてどこかにいってしまうのかもなぁ

 

詩を書くことも、AIってやつが、

ひとのかわりに、気の利いた文字列を書きつけそうな、

そんな時代に。

 

(ぼくの詩なんて、へなちょこですが、谷川俊太郎さんに弔意を表して)