迷光亭冬雀日記

思いつくまま、気の向くまま。行く先もわからぬまま。

もの語る人びと ~一年の締めくくりに~

 副題をつけるのなら、「端的に言って人生は無意味だ。しかし、生きてみるだけの価値は有る。シリーズその2」。

 年末なので、一年を振り返ってみる機会も、皆さんお有りだろうが、例えばこういうこと。「あなたの今年1年を、5分間でまとめて下さい!」、こう問われたらあなたはどのように答えるだろうか?結論を先に言ってしまうと、あなたが答えたその5分間のことばたちが、意味なすものが、あなたの「(今年1年分の)人生の意味」なのだ。

 なぜか?もともと1年分の生活の経験を5分間でまとめるほうが無理なのだ。だから5分で答えようとすれば、必ず「あなた自身の手によって」、恣意的に経験の編集が行われる(「5分じゃ、まとめられません」という回答も想定できるがあえてここではスルーする)。すなわち、あなたは、あなたの人生を、自ら「ここに注目!」とか「ここは、置いといて」などと操作できるのである。

 このとき、そこには、あなたの「人生の意味」が現出しないだろうか?だって、あなたは、語りのレベルで「単純な事実の連鎖としての人生」に「意味の操作」加えたのだ。あなたは、1年を5分にまとめることで、人生の意味を提示してみせたのである。

 「時間」それ自体には、意味などは必要とされない。しかし、そこに「人」が介在するとき、ひとは「意味」を切実に必要とする。「<意味>から<強度>へ」というのが、ニーチェの主張のひとつらしい。それはそれで確かなのだろう。しかし、「超人」ならざる、「凡夫」にとどまる私のような人間は、「無意味」の果てになおも「意味」を求めてやまない。

 「語り」と「意味」の関連性に、納得していただけたものとして、話を次に進めたい。「語り」には「独白」と「物語」とがある。このうち「意味の生成」にかかわるのは、「物語」である。「独白」は思考の整理には有効だが、意味の生成の観点からは、充分とは言えない。「意味」には「受け手」が必要となる。「語り」においては「物語」がそれを担う。物語には「話者」と同等以上に「聴者」が重要となる。もの語りを聴いてくれる人が大事ということだ(ここで「王様の耳はロバの耳!」とほら穴にむかって叫んだ、あの床屋を思い出してもいいかもしれない)。

 もの語る人、というのはいわば「森の中の泉」のようなものだ。そこへいけば、泉の水でのどを潤したり、体の穢れを清めたり、泉そのものの美しさに魅惑されたり出来るだろうが、泉がそこにある事に誰も気づかなければ、泉はやがて、地下の水脈がその流れを変えたら、誰知ることもなく涸れてしまうだろう。せっかく生成した意味が蒸発してしまうことだ。ものを聴く人というのは、「泉を探すために、森に入る人」であり、「あの森の、あの場所に、泉があった」と他の人に伝える人、だろう。

 「もの語り」には人と人との、そのあいだの、意味の往還が必要なのであり、人が人を、ありのままで尊重するに値するものである、と承認するための責務がある、とそのように思う。

 そして、私は、次にあなたたちに会うときに、何を語ろうかと、あなたたちからどんなことを聴けるのだろうと、期待をこめて、さほどピュアでもない胸をときめかすのです。

 また、来年も、愉しき語らいの場に逢いまみえることを、強く信じています。