灯よ、我とともに歩め
希望、について少し考えてみる。唐突で、すこし気恥かしいが。
希望が真に重みを持って語られる時、それにはその反対の状態、すなわち「絶望」とか「苦境」といった状態が前提になりはしないだろうか?言い換えれば、「希望」の発現には「絶望」を通過する必要があるのではないか?
毎日が幸福で過不足の無い暮らしを続けている時、「希望」はさして身に迫っては必要性を感じられない。あたかも太陽の光があるうちは、夜空の星々の光がかすんでしまうように。しかし、ひとたび自分の心が暗闇に包まれたのなら、その不安な心は、ほんの一筋でもいいから光を求めてしまうのではないか?(ちなみに私は暗所恐怖症のため、「あたたかい暗闇」や「やさしい闇夜」というものを、体感的には想像できない。)
絶望の闇の中にも、「つい」求めてやまない、ちいさな灯り。生きていくためのよすが、それが、私にとっての「希望」というものなのだ。
そしてそれは、「そこにある」ことを信じていなければ、見えない。心から必要だ、と願うもの。
大きな暗闇を、真昼間のようにあかあかと照らすような、炎の柱のような強い明かりは、私には望めそうもない。ただ、暗闇の中でも、つかのま「ほっと」できるような、ほんの少し自分の身の回りを照らしてくれるような、小さな灯り。ともしび。それが私には必要だ。
今、私は、闇夜の山中あるいは海上を、灯火ひとつたずさえて、前に進むような気持ちでいる。悲壮感に浸ること無く、夜が明けることを信じて、この旅路を行こう。