私の好きなこと
愚者の代弁者
「愚かさ」は、はたして罪なのだろうか?
印象論にすぎない、とされてしまえば、確かにそうなりえるのだが、それにつけても、昨今の世間様を横目でながめていると、やたらと「さかしら」なひとが目につくように思われる。
いっぱしの、批評家、レビュアー、コラムニスト、エッセイスト、あるいはコメンテーターにでもなったつもりなのだろうか、彼らは?おおよそ、何につけても、一家言ないと気が済まないようなひとたちが多い。その割には、現在の日本の言論空間の空疎さと言ったら、なんなのだ?
言い訳がましく聞こえるかもしれないが、このような手慰み的ブログをシコシコ書きつづっている時点で、かくいう私自身も、「彼ら」と大差ない人間であることは、謙虚に認める。しかし、である。
何ゆえ、「彼ら」は、そんなにも自分を「賢く」見せたいのか?「愚かさ」を忌避するのか?
私には、彼らの、賢く立ち回って、なんでもそつなくこなしていく、みたいな姿勢というか、生き方が、何か責任を回避したり、リスクやコストを引き受けないような生き方に見えるのだ。
そんなに、「正解」だけが重要か?また、正しい「解」は、たったひとつしか認められない、とでも言うのか?
想像してみてもらいたい。人の愚かさを一切許容しない社会の、いかに居心地の悪いかを。
基本、人間が生きていく上では、想定だにしていなかった事態というものが、しばしば起こりえる。「先行きの見えない」時代、などというが、本来、未来に何が起きるのかは、確率論的にしか予想できない。「見通しのきく未来」などというものが、もともと思い込みの産物に過ぎないのだ。
ならば、どうすればいいのかというと、「トライ&エラー」でやっていかざるをえないのだ。はじめから「正解」にたどり着くことなど、無いとまでは言わないが、まれなのだ。
ならば、いかに計算しても、計画を練っても、人は過ちをおかすし、失敗だってする。そうした「愚かさ」を人は元来、切り捨てようがないのだ。
「愚かさ」を認めない、ということは、人本来のありかたを否定してしまうことに他ならない。合理主義や理性は大切だが、そうしたものだけで、人間や世界を規定してはならない。自らの知性の限界について、虚心坦懐になるべきである。(「合理性のほころび」を知りたければ、歴史を参照されたい。あまたの、戦争や革命、進歩主義、科学技術の盲信、人間の驕り高ぶりのオンパレードである。)
過ちをおかす愚かさは、致し方ない。真に猛省されるべきは、過ちからなにひとつ学ばないこと。
そして、時代を開くちからは、時にそれまでの世界の常識からは、はずれている、まさに「愚か」な行為とみなされてしまうものにこそ宿るのだということをお忘れなく。
あえて、断言しよう。「愚かさ」とは「自由」であることの、かかすことのできない条件なのだ。
Stay foolish.
この素晴らしき世界
本日、病院。帰り道、駅のほうへと歩きだすと、これまで気がつかなかったのだが、緑道というか遊歩道があった。「ん?これいくと、駅に出られんじゃね?」と思い、足を向けた。
春の日差しはうららかで、新緑が目にまぶしかった。
ふと、"I see trees of green,..."というサッチモの例の曲のフレーズが頭をよぎり、にわかに、唐突に実感した。そう、確かに、"What a wonderful world."だった!
もともとイカレぎみの私の頭が、この陽気で、いよいよ行きつくところまでいってしまいそうになった、それだけのことかもしれない。
ただ、きわめて主観的な見地から言わせてもらえれば、私は世界の広さと、そこに息づく生命の豊潤さを、全身全霊で感じたのである。
木々、葉、風、光、芝生の上の子どもとその母親、鳥、さえずり、車、坂道、遠くに見える、駅にすべりこむ電車!生きとし生けるものはもちろんのこと、無生物たちまでもが、この今日という良き日を喜んでいるようだった!
そして、私は心に決めた。
私は、この先、何度でも挫折し、くじけ、心折れるだろう。でも、「世界」と「他者」が存在する限り(「世界」、それは私の住まう場所であり、「他者」、それこそ私が求めるもの)、私は何度でも、繰り返し、日々の暮らしをやり直すだろう。
あの時、道で、私とすれちがったひとたちは、いぶかしんだかもしれない。なぜなら、こののどかな昼下がりに、私は感情の高ぶりの中、ほとんど泣きそうになりながら、顔をくしゃくしゃにして歩いていたのだから。
追記:道中、寄り道して、書店で、海猫沢めろんの新刊を買う。先ほど読了したが、また泣きそうになった。今日の私は、なるほど神経過敏かもしれない。
もの語る人びと ~一年の締めくくりに~
副題をつけるのなら、「端的に言って人生は無意味だ。しかし、生きてみるだけの価値は有る。シリーズその2」。
年末なので、一年を振り返ってみる機会も、皆さんお有りだろうが、例えばこういうこと。「あなたの今年1年を、5分間でまとめて下さい!」、こう問われたらあなたはどのように答えるだろうか?結論を先に言ってしまうと、あなたが答えたその5分間のことばたちが、意味なすものが、あなたの「(今年1年分の)人生の意味」なのだ。
なぜか?もともと1年分の生活の経験を5分間でまとめるほうが無理なのだ。だから5分で答えようとすれば、必ず「あなた自身の手によって」、恣意的に経験の編集が行われる(「5分じゃ、まとめられません」という回答も想定できるがあえてここではスルーする)。すなわち、あなたは、あなたの人生を、自ら「ここに注目!」とか「ここは、置いといて」などと操作できるのである。
このとき、そこには、あなたの「人生の意味」が現出しないだろうか?だって、あなたは、語りのレベルで「単純な事実の連鎖としての人生」に「意味の操作」加えたのだ。あなたは、1年を5分にまとめることで、人生の意味を提示してみせたのである。
「時間」それ自体には、意味などは必要とされない。しかし、そこに「人」が介在するとき、ひとは「意味」を切実に必要とする。「<意味>から<強度>へ」というのが、ニーチェの主張のひとつらしい。それはそれで確かなのだろう。しかし、「超人」ならざる、「凡夫」にとどまる私のような人間は、「無意味」の果てになおも「意味」を求めてやまない。
「語り」と「意味」の関連性に、納得していただけたものとして、話を次に進めたい。「語り」には「独白」と「物語」とがある。このうち「意味の生成」にかかわるのは、「物語」である。「独白」は思考の整理には有効だが、意味の生成の観点からは、充分とは言えない。「意味」には「受け手」が必要となる。「語り」においては「物語」がそれを担う。物語には「話者」と同等以上に「聴者」が重要となる。もの語りを聴いてくれる人が大事ということだ(ここで「王様の耳はロバの耳!」とほら穴にむかって叫んだ、あの床屋を思い出してもいいかもしれない)。
もの語る人、というのはいわば「森の中の泉」のようなものだ。そこへいけば、泉の水でのどを潤したり、体の穢れを清めたり、泉そのものの美しさに魅惑されたり出来るだろうが、泉がそこにある事に誰も気づかなければ、泉はやがて、地下の水脈がその流れを変えたら、誰知ることもなく涸れてしまうだろう。せっかく生成した意味が蒸発してしまうことだ。ものを聴く人というのは、「泉を探すために、森に入る人」であり、「あの森の、あの場所に、泉があった」と他の人に伝える人、だろう。
「もの語り」には人と人との、そのあいだの、意味の往還が必要なのであり、人が人を、ありのままで尊重するに値するものである、と承認するための責務がある、とそのように思う。
そして、私は、次にあなたたちに会うときに、何を語ろうかと、あなたたちからどんなことを聴けるのだろうと、期待をこめて、さほどピュアでもない胸をときめかすのです。
また、来年も、愉しき語らいの場に逢いまみえることを、強く信じています。
本当に面白い、ってなんでしょうね
えっと、最近、ぱっとしません。
とはいえ、グチってみてもやるせないので、人生どうすれば「面白く」できるのかなあ、なんてことをダラダラ考えてみます。
実を言うと、私、「端的に言って、人生とは無意味である」、なんて考えています。でも、あまりショック受けないでください。だけど、一方で「それでも生きてみるだけの価値はある」とも考えています。
人が生きる意味って、ただ、のんべんだらりと生きてるだけではわかんないものなのかなと。意味を「求め」たり、「信じる」ことではじめて見つかるものなんじゃないのかなと。生きることの「能動性」が大事なんだろうなと思います。「人生という舞台で、自分が主役になる」(アラン『幸福論』にそんなこと書いてありました)ってことですね。
で、これをふまえて、どうすれば納得のいく「人生の芝居」ができるのかが問題になるかと。
ひとつには、ひとから称賛されること。またひとつには、ちからを出し切ること。あるいは、演じること自体を楽しむこと。まだまだ他にも人それぞれいろんな価値の見い出し方があるかと思います。そういえば、マズローの欲求段階説、なんてのも話題になったことありますね。
私の場合は、「面白い」かどうかが、人生の意味をジャッジするときの判断基準になっているようです。
あることをおこなうに際し、それに「目的」があるなしとか、「損得」があるなしといったことには無頓着です。「面白い」と思えれば、基本OKです。
楽天的すぎるのかもしれませんが、裏を返すと、「面白くない」と感じてしまったら、何もかも投げ出してしまいたくなります。
目下のところ、仕事のほうは、日々の糧を得るための大事ではあるが手段のひとつと割り切って、勉強(放送大学での社会科学系科目)に意義を見い出そうとしてます。
ただ、「面白主義」だけでは、勉強のモチベーションを維持するのは大変なのですね…。学ぶ楽しみはあるのだけれど、全ての科目についてではないし、仕事で疲れてたりすると、なおざりになっちゃったりします。
そこで、冒頭の、「面白い」って何?という問いに至るわけです。
最初の純然たる「面白い」が、鈍磨していくと、やがて惰性になり、結局「飽きた」でフィニッシュしてしまうのでしょうか。…なんか、私の人生、その繰り返しばかりだったような気がしてきましたっ?!
いかんいかん、悠長にブログ書いてる場合じゃないかも!
本当に「面白く」生きるためには、やっぱり「対価」が必要かも?しかもそれって「日々の積み重ね」とか、「努力」なんじゃないか、と、ここで突然に天からの啓示のように思えてきたー!
すいません、考え方、もっと「しゃきっと」させます。反省反省。
なんとなく、考えもなしに書き始めてしまっていたけど、凡庸ながら大事なことに気がつきました。「継続は力なり」、ですよね?
とてつもなく脈絡のない文章で、読んでくれたひとには誠に申し訳ないです。
明日から(「今から」でないのも私らしさとお考えください)、仕切りなおしますっっ!!
猪八戒主義とその顛末
木皿泉のエッセイからの孫引きとなるが、『西遊記』の猪八戒が沙悟浄に語りかける。以下引用。
あるとき八戒が俺に言ったことがある。「我々が天竺へ行くのはなんのためだ?善業を修して来世に極楽に生まれんがためだろうか?ところでその極楽とはどんなところだろう。蓮の葉の上に乗っかってただゆらゆら揺れているだけではしようがないじゃないか。極楽にも、あの湯気の立つ羹(あつもの)をフウフウ吹きながら吸う楽しみや、こりこり皮の焦げた香ばしい焼肉を頬張る楽しみがあるのだろうか?そうでなくて、話に聞く仙人のようにただ霞を吸って生きていくだけだったら、ああ、厭だ、厭だ。そんな極楽なんか、まっぴらだ!たとえ、辛いことがあっても、またそれを忘れさせてくれる・堪えられぬ怡(たの)しさのあるこの世がいちばんいいよ。少なくとも俺にはね。」そう言ってから八戒は、自分がこの世で楽しいと思う事柄を一つ一つ数え立てた。夏の木陰の午睡。渓流の水浴。月夜の吹笛。春暁の朝寝。冬夜の炉辺歓談。……なんと愉しげに、また、なんと数多くの項目を彼は数え立てたことだろう!
なんともはや、素晴らしい考えではないか!いたく感心した私は、おおよそ2年前にこの一文を読んでから、機会さえあればこの考えを「猪八戒主義」として友人・知人に喧伝して回り、自らその実践者となり、日々過ごしていた。
しかして、その結果はいかに、というと、過去ログをお読みいただければお分りになるとおり、私の生活はいささか破たんした。
この2年間、私は欲望のおもむくまま、やりたい放題に生きてみたのだが、人間の欲望というものには際限がなく、ほっておくとどうにも自分の手に負えないことになってしまうものだと痛いほどよく分かりました。人間、欲望するにも、それに見合うだけの体力や精神力が必要なのですね。
そこで思い出したのが、古代ギリシャの哲学者、エピクロス。私の知っているのは『SFマガジン』の哲学コラムの聞きかじり程度なので、哲学に詳しい人からツッコミされそうだが、エピクロスの「快楽主義」のキモは、「腹八分目」なのだそうだ。真に人生を楽しみたければ、野放図に快楽を追い求めるのではなく、節度が必要なのだ、ということらしい。(ちなみにエピクロスが至上の快楽としたのは「友愛」であり、目指すべきは「心の平安」だと唱えたらしい)
結局は、「バランス」が大事なのですね。今なら良く分かる気がします。
ひるがえって、「猪八戒主義」。いやね、これはこれでやはり魅力的なものの考えでしょう。安易に「悟り」を開いた気にならず、欲を素直に見つめて生きるのも肝心かと思います。
自らの内なる「貪欲さ」"greed"と、その根源たるこころの「欠落」"want"と、どう折り合いをつけて(あたかも暴れ馬のたづなを繰るように)、自分の人生を本当に楽しく生きていくかが、今後、私の生涯の課題となるのでしょう。
はめをはずさないように、でもときにははめはずしちゃったのを反省しつつ、この限りあるが豊かな人生を楽しもうではありませんか、みなさん!
ただ、吾唯知足、吾唯知足…。
灯よ、我とともに歩め
希望、について少し考えてみる。唐突で、すこし気恥かしいが。
希望が真に重みを持って語られる時、それにはその反対の状態、すなわち「絶望」とか「苦境」といった状態が前提になりはしないだろうか?言い換えれば、「希望」の発現には「絶望」を通過する必要があるのではないか?
毎日が幸福で過不足の無い暮らしを続けている時、「希望」はさして身に迫っては必要性を感じられない。あたかも太陽の光があるうちは、夜空の星々の光がかすんでしまうように。しかし、ひとたび自分の心が暗闇に包まれたのなら、その不安な心は、ほんの一筋でもいいから光を求めてしまうのではないか?(ちなみに私は暗所恐怖症のため、「あたたかい暗闇」や「やさしい闇夜」というものを、体感的には想像できない。)
絶望の闇の中にも、「つい」求めてやまない、ちいさな灯り。生きていくためのよすが、それが、私にとっての「希望」というものなのだ。
そしてそれは、「そこにある」ことを信じていなければ、見えない。心から必要だ、と願うもの。
大きな暗闇を、真昼間のようにあかあかと照らすような、炎の柱のような強い明かりは、私には望めそうもない。ただ、暗闇の中でも、つかのま「ほっと」できるような、ほんの少し自分の身の回りを照らしてくれるような、小さな灯り。ともしび。それが私には必要だ。
今、私は、闇夜の山中あるいは海上を、灯火ひとつたずさえて、前に進むような気持ちでいる。悲壮感に浸ること無く、夜が明けることを信じて、この旅路を行こう。