迷光亭冬雀日記

思いつくまま、気の向くまま。行く先もわからぬまま。

私の理想の隠遁生活

(2015年3月14日、記す。いまは遠い、ふたりのこころに捧ぐ)

 

 

60歳の夏、冗談のようだが、宝くじで 3億円が当たった。
かくして、私の理想の隠遁生活が始まった。

住処は、千代田区猿楽町、駿河台から女坂を下った辺りの雑居ビルの 4階に定めた。
この街は、私が 2歳から10 歳まで暮らしたところである。このビルの部屋というのは、住居用ではなく、もともと、何かのマイナーな業界紙の編集部があったというところらしい。 30平米ほどのスペースである。
家具類は、ベッドと、ライティングテーブル、背の高いスライド式書棚が 4棹、TV セット、衣類用チェスト、そのくらいである。かようなところで、一人暮らしている。

朝は、夜明けの前に起き、ミルクティーを飲みながら、日の出るのを、窓越しに眺めて待つ。日が昇ると、まずは日課としている散歩に出る。女坂をえっちらおっちらと登り、マロニエ通りを歩み、御茶ノ水駅の脇を抜け、聖橋を渡り、神田明神に参詣する。帰りは秋葉原方面へ坂を下り、昌平橋を渡り、淡路町から小川町、駿河台下の交差点をぬけ、猿楽町へ戻る。
そうしてから、朝食である。朝は、白米に限る。時たまは、トーストのこともあるが、基本、ご飯である。ハムエッグとキャベツの味噌汁、キュウリのキュウちゃん、ごく簡素な朝食である。

午前中は、読書に充てる。目下、岩波書店漱石全集、箱入り、しかもあえて神保町の古書店で古本で購入したものを、読んでいるところだ。かたわらに煎茶と草加せんべいは欠かさない。

漱石先生の世界観に没入していて、ふと気がつくと、正午である。昼食にする。スパゲッティを茹でる。今日は、ツナとほうれん草。

腹も膨れたところで、午後は、神保町へ古書店巡りにむかう。社会科学、アート、人文書、の専門店3軒をはしごする。どの古書店主も、愛想が悪く、人を値踏みするかのようなまなざしで一瞥するが、私も負けじと素知らぬふりで応じる。ぞんぶん、本を堪能すると、その後は、喫茶店へおもむく。
私の行きつけは、三省堂神田本店裏の、ミロンガである。カフェオレと、ブラックベリータルトを賞味しつつ、アルゼンチンタンゴの調べにに身をゆだねる。

夕方になった。今日はめずらしく、遠方、二子玉川より、友来る。また楽しからずや。
まずは、共栄堂のスマトラカレーで腹を満たし、そのまま階上の、ビアパブ、ランチョンへ移動する。彼は下戸なので、私ばかりが、ビールを飲む。つまみはミートパイ。彼は相変わらずの、適当で愉快な男である。ジョッキ三杯を空けたところでお開きとする。

神保町駅まで、友を見送り、一先ず自宅へもどり、西神田の銭湯へ行く。ほろ酔い加減に春の宵の風が心地よい。ふと見上げれば、おぼろに満月である。じつに良い。

ふろ上がりの、さっぱりした体で、我が住処に帰ると、ばったり、ベッドにころがる。うとうとしながら、今週末におとずれる、数十年来のおんなともだちのことを想う。この数年、週末に、彼女の家を訪ね、夕食をともにする習慣になっているのである。買い物も二人でして、料理するのも二人、二人で食べるのである。若かりし頃より魅力的なひとであったが、歳月を重ねて、今の彼女は、優しく、気高く、そしてまことに美しい。などと考えているうちに、眠ってしまう。

以上が、私の優雅なる隠遁生活、そのある一日である。