迷光亭冬雀日記

思いつくまま、気の向くまま。行く先もわからぬまま。

やがて哀しきパチンコ Tears of PACHINKER

パチンコは、かなしい。
パチンコは、さみしい。
パチンコは、くるしい。
 
まるで「片思いの恋」のようだ。
「片思い」にも、「パチンコ」にも身を焦がすような、「悦び」と「陶酔」があるが、それでも「かなしみ」のほうが、それらを上まわる。
単にギャンブルだから、というだけではなく、ほんとうに割が合わない。
あなたがパチンコに出かけたとする。3000円と予算を決めて、堅実に打つ。5000円くらい勝った。出玉を換金しても良い。景品としてお菓子と交換するのも良い。
で、だったら何だというのだ?
もちろん本人が楽しんで打っているのだからそれで良いのだ、とは言える。
しかし、あなたが費やした3000円のお金で、他に何ができたであろう?
ブックオフで本を何冊か買って読む。あるいは、映画館で映画を見ながらポップコーンとコーラを堪能する。大切な家族や、友だち・恋人にプレゼントをする。
いろんなことができたはず、なのだ。
費やした時間について考える。
1時間で打つのを止めたとしよう。その1時間でできたことを考える。
犬の散歩。のら猫探し。花の写真を撮る。路線バスにあてもなく乗ってみる。お気に入りの喫茶店でコーヒーか紅茶を飲む。誰かに手紙を書く。
そんなことができたはず、なのだ。
なのにそれでも、「あなた」は、パチンコを打つことを選んだ。
あるいは、パチンコをする「以外の」選択肢を選ばなかったのだ。
あなたたちが「なぜ」パチンコをするのかは、パチンコをしない僕には、ほんとうのところよくわからない。
だから、あなたたちを断罪することも、代弁することも、ともに僕にはできない。
ただ、それでも、あなたたちの気持ちを「想像する」ことは、僕にもできる。
きっと、あなたたちは、
「かなしい」のだ。
「さみしい」のだ。
「くるしい」のだ。
そして、「弱い」のだ。
みずからの内にある、そうした、かなしみ、さみしさ、くるしさ、それらを「ことば」にあらわすこともできず、そうした、「負うた感情」たちから逃れるようにしてパチンコに向かうのだ。
決して「楽しんで」いるわけ、ではないのだ。
なぜこんなことを「あなた」に対して断定的に、えらそうに言えてしまうのかというと、それは、「僕」自身もまた、「かなしい」にんげん、だからだ。
僕はパチンコはやらないけれど、かなしみや、さみしさや、くるしさについてなら、ようくわかっている、つもりなのだ。
だから、もう、「パチンカー」たちよ!
みずからをさげすむ必要はない。
世間の批判に、こころを折られることもない。
「あなたは、あなたであればいい」(マザー・テレサのだ。
 
おお、「パチンカー」たち、
現代の「求道者」たちよ。
God bless you.
 
なぁんて、ね…!